彫刻は立体芸術であり、建築は空間芸術である、という解釈が一般的である。ただし、この区別ではヘンリー・ムーアの『頭』などはどうなるのか?という問題も生じる。 では、イサム・ノグチのモエレ沼公園の例は如何様に理解すべきであろうか。イサム・ノグチは公園全体を彫刻として捉えると発言している。客観的には巨大な造園芸術であり、アースワークとしての主張は感知出来ない。これほどの巨大空間の制作を作者発言によって、彫刻として一纏めに納得するのは難しい。確かに夫々のディテールはイサム・ノグチ彫刻芸術の集積であるが、公園全体の姿・形状を彫刻として理解するのは、人間のサイズが小さすぎるのかも知れない。
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マルセル・デュシャンが始めたとされるレディ・メイドが彫刻であるかどうかという問題は、例えば彼の「便器」。これが実在の物体そのものであるという点ではあきらかに彫刻的ではあるものの、それが正にありふれた便器であること以上の知覚を最終的に我々に与え得ないという点で彫刻とはいえない。 この問題はしたがって画家による絵画への反発、あるいはもっと広範囲の芸術的限界を超えようとする意味のもである。 この点で「レディ・メイド」は結果的に、絵画と彫刻の中間を露呈しようとするファクターのひとつであると言わざるを得ない。
剥製は自然の造形を保存したものだから彫刻ではない。通常剥製は、学術的・装飾的な目的により制作され、再現性が重視される。その意味から外れて製作者が何らかの意図を挿入し、造形したとすれば、その時点でそれは剥製ではない。